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2020-11-11

奄美の社会福祉の父ゼローム・ルカゼウスキー神父

ゼローム・ルカゼウスキー神父は、1922年、米国コネチカット州ニューヘブンにポーランド系アメリカ人を両親として生まれた。

信仰深い父母のもとで育った神父は、子どもの頃から司祭を目指すようになっていた。

憧れの司祭となって4年が経過した1952年、宣教師として琉球列島・奄美への派遣命令を受けた神父は、沖縄を経由して同年11月27日、島の中心地名瀬に上陸した。

当時の奄美は日本本土と切り離され米軍政下にあって、人々は精神的、経済的に不安と困窮の極みにあった。

神父は奄美の人々に希望のともしびを与えるべく、宣教活動のかたわら東奔西走島民の生活向上のために専心していたが、やがてハンセン病療養所「奄美和光園」の現状に直面して、心を痛めるようになった。

当時、日本のハンセン病療養所では子どもを産むことを禁じられていたが、「和光園」ではカトリックの支援を受けて、出産を実現させていた。しかしそのあとの保育養育の手段が確立されていないために、患者である親や支援者はつねに不安の種がつきまとっていた。

患者に安心して産んでもらうために奔走したゼローム神父は、昭和29年、ハンセン病未感染乳児収容所「こどもの家」を創設した。

そして翌年、ショハイユの幼きイエズス修道会がその事業を引き継ぎ、昭和34年に児童福祉法の許可を受けた「名瀬天使園」を開設、一般の乳児も受け入れられるようになった。同年、児童福祉施設「白百合の寮」も立ち上げて、宮崎カリタス修道女会(現イエスのカリタス修道女会)がその運営を担うことになった。

昭和41年には、知的障害児施設「希望の星学園」を設立してクリスト・ロア宣教修道女会に委譲した。その他老人福祉施設なども手掛けたが、神父は、弱っている人、苦しんでいる人を目の前にして、そのまま放置しておくことができなかった。その熱愛が祖国復帰直後の貧しい奄美の福祉行政のそれぞれの分野において、先鞭をつける役割を果たすことになったのである。

神父が献身したさまざまの福祉活動に対しては、名瀬市名誉市民をはじめとする、毎日新聞社、南日本新聞社、南海日日新聞社などからの顕彰があった。

ゼローム神父は、いまも奄美の地において永遠の眠りについている。

ゼローム神父の胸像

2014年3月2日建立 郡山司教により祝別される

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